島原半島「今昔ヒストリー」


島原半島北有馬町辺りの干潟「干満さ=3,4m位」
インターネットで問い合わせがあった、島原半島の某市を訪ねて半島を一周した、合併前の旧町では樹工時代に大変
仕事で世話になり今も現存している造形物が国道で私を温かく迎えて呉れた。
西有家町の「みそ五郎」・北有馬の「さき丸」くん、国見町の「ありあけ蟹モニュメント」等々、一つ一つに感慨をご苦労さん・・・の独り言。
有明海に面した島原半島の干潟魚貝類の状況を土地の漁師に尋ねると、昔は沢山いたアサリも○○貝も皆無になった
原因を問うと、護岸工事・埋立て工事で潮流が変わった結果と言う、過っては対岸の熊本・深奥の佐賀・諫早湾を経由し時計逆周りで豊富な餌類と新鮮な酸素を含んだ海水が半島の生態系を形成していたのだろう、古老は唾を吐く捨てるように云った。
古くは南北朝時代から、戦国時代に栄華を極めた半島の雄
有馬氏の末裔はこの地には済んでいないが政治評論家の有馬晴海氏は末裔の末裔のはず。
有明海諫早湾橘湾大村湾も「病める海域」と言う意味では兆通の問題を抱え同じである。