岐路はどこだったか(2)

名古屋で3年、営業の勉強をした。

勤めた先は大阪本社の名古屋営業所、全社で100名規模の中小企業、営業から納品、修理まで何でも…販路は東海3県から信州迄、至る所~走り廻り社会勉強もさせて頂いた。

高校出たばっかりの田舎の小僧に良く営業範囲を持たせてくれた、と今振り返れば有難く思う。

60年前の当時の友人、会社の先輩と今でもご厚誼を頂いており、生涯の思い出になっている、特に先輩のK氏には弟のように可愛がって頂いた、私が在職中に独立され薫陶を受けた方である。

次の岐路は名古屋の営業会社を辞め独立自営の道を求め先ず資金稼ぎの為、大型トラックの運転手を目指し大型免許取得の為、愛知県の自動車学校に通う、原資は3年間の退職金。

収入も無く、住む処も無い…ルンペンを免れたのは友人のお陰、居候になり45日で免許取得、晴れて資格をGET。

大阪の長距離輸送会社、N運送採用試験を受ける段階になり資格要件が示された,経験1年以上、当たり前の事だが眼中になかった。

苦肉の策で免許取得の時期を1年前に修正、面接官を上手に丸め込んで突破した。

今にして思うと面接官は見破つてたのかも、と思う、当時は東名高速道路は未開通で大阪~東京は御殿場経由のルートで深夜定期便の運転業務。今はJRのコンテナで鉄道郵送も普及してるが、高度成長期はトラック郵送が主流で各社間の競争が激しく常時、運転手不足していたのが幸運であつた。

無謀といえばこれほどの無謀はない、自動車学校のコースしか走った事が無い未熟者に国道一号長距離深夜定期のハンドルを握らせる危険性は握る者も握らせる者も一蓮托生

棺桶を担いで走るに等しく良く決断したと思わずには居られない。(次回に続く)