岐路はどこだった?

N運送に入社、その日から東京~大阪間の深夜定期のハンドルを副運転手の立場で乗車、と言っても交互運転で立場は同じ。

否、むしろ荷物の積み下ろし、燃料の補給、伝票のチェック等積み込みに入る。10トン車に大小様々な荷物を一つ一つ荷崩れがしないように満載これだけでクタクタになる。早朝6時頃、東京品川支店に到着させる為,大阪高槻本社を午後8時頃出発進行,GO~

夜12時頃名古屋当り夜食を摂り、どの辺か忘れたが静岡の小夜ノ中山で休憩、富士の裾野~御殿場経由で湘南~茅ケ崎~大森品川~新宿、最後に板橋まで転々と支店に荷下ろしし、午後五時ごろ終了、東京支店で当日は一泊。翌日、PM3時頃から東京支店で積み込み、夜の8時ごろ大阪支店に向かって復路に入る、結果…支店1泊、走行車両に2泊、往復で3日が1航海の勘定で出来高勘定、通常これを8航海して当時の給料で3万円位。

当時の運転手はまともに会社勤めが出来ない人間の職種でやくざ崩れ、小指の無い入れ墨紋々の男達の集団で、宿舎は花札、競輪競馬競艇漬けで貰った給料は4,5日で飛ばしていた、そんな処に暮らす羽目になり私の給料も入れ墨紋々に取り上げられ、最初は授業料と思い付き合っていたがそのうち取り返すぞ!と思っている内に足の甲にガラス箱が落下、全治3か月の骨折してアクセルを踏めなくなり辞めなければいけなくなった。

大型貨物深夜定期便の経験は過酷な労働条件で危険な仕事であった、雨降りの国道1号は当時まだ東名高速道路も工事中で走れず事故が多発、特に箱根の裾野、御殿場街道は蛇のようにクネクネ、下り坂で道幅も狭く大型がギリギリ交差出来るか出来ないか程の道幅で雨の日は崖下に転落し誰が立てたのか犠牲者の墓標が至る所に建っていた。

事業資金を確保する為に所得3倍増を狙い危険を承知で就いた仕事であったが過酷で命掛けの仕事をする中で事業は資金だけではなく、業界で信用を得る事こそ肝要と気付き金は借りてでも作れるが信用は自前で確保、と言い聞かせこの運送会社を退職する事にした。あっという間の1年間で得たものはと自問したら・・・(NO3完)