岐路はどこだった(4)

1年間の雲助家業だった、東海道53次の宿場町を全部、横目に走り高度成長時代の物流業界の片棒担いで地理と物流現場の最前線を垣間見れた事はオマケの様な収穫。

当時は長距離輸送の運転手は蔑称、雲助…(謂れは昔の籠担)、峠には山賊が居り、その殆どが一皮むけば雲助、山賊が雲助になったか、雲助が山賊になったか起源は分からないがお客の所持品を強奪する悪党がおり、柄が悪いのが相場の運転手が裏でそんな呼ばれ方をしていた。

ただ、今にして思えば一度だけ居眠り運転で静岡掛川の金谷峠に入る橋の欄干に激突寸前に目が覚め、自分の中では「やった!!」、将に奇跡的に回避できたのは何だったのか、今でも不思議な気がしてならない。

そんな訳で当初の思惑は挫折、貴重な一年間と名古屋時代に貰った退職金も飛ばしてしまい収支の合わない経験をしたがお金に換算できない貴重な経験をさせて貰った。

敗れて雲助を辞した訳でなく、新たな気付きの中で再出発の機会を得た事が最大の収穫

と言える。

N運送は業界2位(日本通運の次)で、私と同年位の後継者がいたが、その後~佐川、西濃運輸との競争に敗れ倒産、知る人の居ない会社になった。

名古屋に就職した事、退職金を叩いて雲助になった事、都会を引き上げて長崎拠点で創業計画を立て再出発…Uターンこれは紛れもない最初の岐路で判断ミスは無かった。

但し、バクチで貴重な給料を授業料にしたのは計算外。(NO1~NO4 完)

《次の岐路は結婚か》