「山頭火」が思い出される。


短い秋が過ぎて12月が到来、寒い冬が来た。
冬が来たら「山頭火」の読んだ俳句が聞えて来る、放浪の俳人種田山頭火」私が産まれた前年10月に四国の松山で没す、70年に成る。修羅変転の生涯を送り孤高に生きた。
私が好きな句は掲載している「生死の中の雪ふりしきる」
極限の時を「刻々・粛々」とかみ締め表現創作に励む山頭火の姿は私には挌闘家に見えてくるから不思議である。
多分この句を掲載するのは2度目である、2,3年前になろうか、アノ当時の状況と今は可也異なるが心底部分は不変。
日記も久方だが、最近何事にも億劫になって来ている自分を少なからず感じるから彼の生き様が恋しく浮んで来たのだろう。
人生を折り返し、齢70歳、未だ道半ばで有りながら貴重な時間を「消化試合」的に浪費していないか、目的と使命感を持って日々生活をしているか、充実した夜を迎えているか、朝は心を新たにして日々に対峙できているか。
自問自答しても確たる答えは引き出せない。