「生命」と「寿命」の違い。

28日:熊本経由、で水俣に友人の病気見舞いに行く、小学校時代からの幼馴染であるが
今は脳梗塞になり病臥の人。彼とは平成11年、嵐の富士山頂にチャレンジした間柄で残り少ない幼少時代を語り合える準親友の一人である、私を夢うつつの中で認識したのか、家内の名前をかすかに口にして呼応した、右手で宙を探り何かを無意識の中で求めているような感じがし胸がこみ上げる。
元気であった頃の彼は人一倍健康に配慮し私にも親身になり色んな情報や手造り器具を送ってくれた、人物は「超」が付くほど好人物で彼以上の人物を私は知らない。
ソンナ訳で会話は出来なかったが会話以上のコミニケーションが出来たけど悲しい無言の交流であった。
夜、山都町に行き「山地神楽祭り」を見る。
中九州の代表的な神楽が実演され伝統芸能に触れる、山岳信仰の一つの形で1000年の歴史を演じる、椎葉、高千穂、岩戸、等々神話をテーマにした物が多く山岳信仰と生活:祭り
が混濁しているが、そこが泥臭く面白く、今後この方面の見聞も拡げてみたいと思う。
28日深夜帰宅する、、、翌29日は終日充電の為、蟄居する。体調不調のまま繰越し。
30日は予てより誘いが有った、カルチャー〇 〇の会が長崎新聞、アストピアホールである、参加者は超少数でキビシイ交流会である、イマイチ、パンチが無くメリハリ欠如、主催者は大赤字で頭痛がしたのではないか。ゲストのカオルサンのピアノは素晴らしかった。
・・・講師で光源寺の住職が説教された。
寿命について語られた、生命と言う「命」と寿命と言う「命」の二つが有り、生命の「命」は限りある命、云わば肉体と共存する生命であると言う。
寿命は「ことほぐ、いのち」で亡び消える事の無い命で物理的にでは無く、極楽浄土で永遠の生命を維持し続けることが出来る、結晶?としての い・の・ち。
分かり難い話であるが、「生命と寿命」の解説は面白い、住職の楠達也師は今日からインドに巡礼に行かれた、宗教家は俗人とは異なる世界で生きているが、やはり現場はこの世である、この世の名声と自我の境(世界)で自己実現を標榜している、立場は違えど自己実現に於いては同じ価値観の世界、親しく交歓する。
一月も今日で最後、コラムは更新したモノノ中途半端になった。
   *又、明日から新規まき直しでガンバロー。