「母の教え」ふるさとの山より重い。


在日2世「姜尚中氏」が新著「母の教え」発刊、冒頭に「齢を重ねるほど自分の中にある母親の大きさに気づかされる」と言及している。
姜氏の母親は韓国人で在日、戦時中からの在日で尚中氏を育てており、想像を絶する苦労をされた事だろう、姜氏は私より9歳若く昭和25年、朝鮮戦争の勃発時に生まれ熊本県で幼少時代を過ごした。
私の知る範囲でも在日の人々は「朝鮮人」と蔑まれ、日本人以下の人間として当時も差別を受けていた。
母の知り合いの中にも在日の方は沢山いたようだが疎開し、外国のような五島列島に来てしまった母も経済的に在日と余り変わらない状態でなかったのかと思う。
昭和19年父が戦死、母は3人の遺児を女手一つで育てなければならない羽目になり、北風に真正面から向かうような構図の中で育てられた私も学校に上がる前から「母の教え」を薫陶にして私自身が出来上がっていったのではないかと確信する。
男の子はどうあるべき、他人、年配者や、社会に対して、正義と勇気のたとえ話、大阪や東京都会の話、果ては歴史上の人物、楠木正成の忠と孝の話全て私の人格の基礎になる部分は幼少の頃の母の教えに起因するといっても過言ではない。
折々に諺や格言で「生き方」を聞かせて貰ったが、やはり「母の教え」の一番は愚痴も言わず、自分を犠牲にして子供に尽くす「母親の姿」そのものであった。
「子供は親の後姿を見て育つ」故に親は親らしくしっかりした生き方を子供に見せないと子供が苦労する、こ無言の母の教えである。
この世に母親に勝る教育者はいない、母親に勝る人物は居ない。
昭和の太公望田中角栄がテレビで汗をかいてる姿を見て「母親フメ」さんが手拭いで汗を拭いたのは有名な話。

男はつらいよ


86才になった山田洋二監督が「不朽の名作 男はつらいよ」の制作に取り掛かっている。
寅さん没後「22年」最初のメガホンを持ってから50年の節目になると云う、山田洋二監督にすれば国民的アイドル寅さんを遺作にする覚悟で「あの世の寅さん」をスクリーンに復活させたのではなかろうか。
寅さんは「天衣無縫」な挙動で笑いと涙、人情をテーマに正月映画に欠かせない映画であった。
「顔で笑って、心で泣く・・・」男のつらさをコミカルに演じ人々の共感を得、日本人の原点、庶民の代役になって呉れた。
寅さんファンで特筆すべきは学識有識者、学究者等アカデミックな人々が多かった事である、無学凡才の主人公「寅さん」は彼等と住む世界の異なる「異邦人」に映ったのではないか、和製ドン・キホーテの寅さんは風まかせ気ままに生きる「フーテン」。
人間の憧れの中に「放浪性」があるのではないか、思い起こせば「生きている内にしておけば良かった10の事」全てを寅さんはスクリーンの中で体現している。
「男のつらさ」も「女のつらさ」も本質的には同じ場面で本当の辛さを感じるのではなかろうか。
息子さんに先立たれた友人が「子供に先立たれることほど、苦しく辛い事はない」と言われたが、切実に共感できる。
金銭的な事、物理的損失、信頼関係の喪失、離縁、別離など辛い事は枚挙を厭わないが、本当に辛い事はそうそう沢山ある訳ではない。
辛いことの解消法はどうしたら良いのか、難しい問題だが心の持ち方しかないのではないか、宗教が支持されるのは多分、その部分に対応しているからだろう。
喜劇「寅さんシリーズ」だが「人生とは、何ぞやと」語りかけてくる映画でもある。
私も人生体験は多分、人の2倍ぐらい積んできたが真の辛さは体験していない、「苦労」は買ってでもせよ、というが「辛さ」は異質のものである。
余命も残りが少なくなった今、出来れば避けて通りたいものだ。

山は高きがゆえに貴からず・・・


11月の7日〜11日まで里山クラブの友人達と鳥取県の「大山」に登ってきた。
5月に九重の「大船」を登ったが「大山」の方が難易度が高くレベルは「上級」4時間少々で登頂したものの「天候は秋雨」頂上はガスで下界は「視界0」頂上からの絶景を期待したが不調
であったが苦労した分だけ達成感を享受、5名全員登頂できたのは細やかな喜びであった。
平常は標高4,5百mの里山級故1500m級になれば四苦八苦するが感動は高さに比例する。
いつも山裾から別名「伯耆富士」眺望していたので、達成感のみならず自分の体力度検証にもなり、今回は貴重な体験旅行にもなり得難い機会であった。
伯耆富士百名山に選定されメジャー級、「山は高きがゆえに・・・木あるを以って貴しとなす」。
昔、漢文の授業で習った漢文を思い出した、山を人に例えた比喩のようである、山の樹木を人の場合は「知と徳」に例えている。
自然の山は高い丈で充分値打ちがある、何故なら登山者に勇気と一歩一歩の努力の成果を示して呉れる、やればできる自信と挑戦することの意義を教えてくれる。
私より若い友人達に5年後、10年後の健康力を確保する為に今から下半身強化に邁進せよと助言している、身体の基幹は足腰にあるである。
老いて自立した生活が出来なければ惨めな思いをするのは自分であり、家族にも世話を掛け粗大ごみ同等になってしまう。
自分を愛する気持ち、家族が大切なら生きてる限り自分の事は自分でする、自分で出来なくなった時が自分的には半死状態だ、といって脅かしている。

思考力も磨けば輝きを増す。


プロ野球もオフに入り「FA」宣言した選手の動向と契約更改の査定額で盛り上がっている。
私が広島ファンになり、かれこれ60年になるが「広島の野球」は昔から余り変わったような気がしない。
昔の記憶では万年最下位の「泥臭い球団」が満身創痍で強大な都会の有名球団に挑戦する構図であった。
今季、広島は圧倒的強さで球団創設以来3年連続リーグ優勝を果たしファンの夢に応えた。
広島ファンは地方の苦労人が多いと思う、広島の栄光を見ずに鬼籍の人になったファンを知つているが彼らが生きていればどんなに喜んだことだろうか、残念である。
今オフ、FA宣言した主軸の「丸選手」が巨人に破格の契約金で移籍した。
巨人は宿敵の主砲を獲得、広島に大きなダメージを与えたことは戦力以上の効果が多大と計算したのだろう。
客観的にはそうだろうが、果たして結果はどうであろうか。
野球評論家の落合博満氏は広島の4年連続セリーグ優勝を予見した、その根拠は広島には「強さを感じさせない強さがある」。
育成選手を2軍で徹底的に鍛え上げ這い上がって来た者で1軍が構成され、所謂、根性も技術も基礎は出来ており簡単に崩れることが無い、そして何よりもチームの勝利を第一にして互いに一丸になり勝利を取りに行く、1軍昇格して崩れない層の厚さを持っている、と私は見る。
おれ流スタイルの名選手、名監督は落合氏の代名詞、奇人的には好きではなかったが彼の采配で洞察力、判断力は畏敬に値し、味が有る。
彼はベンチで静かに戦局を観察、心で読みとり、タイミングを外さない、勝つ采配を下し勝つべくして勝つ。
決して感情や時々のエラー位で直ぐ交代させなかった、セオリー通り、堅実に守り相手の隙を攻めて勝利した、負けない戦法である。
何事も静観正視すれば内面まで透視でき、頭脳が働いてくれる、広島の神通力も落合氏の戦法戦略も全て蓄積された思考力による処が大きいように思える。

「完全燃焼」するという事


12月議会、一般質問で登壇し執行者側に町政を問うた。
一般質問は議員活動の最たるもので、これは選挙民と約束履行の意味を持ち年4回のこの義務を果たせば少し肩の荷が軽くなる。
ネットを検索していたら「樹木希林」さんの紹介が有った、彼女の死生観で「じぶんを十分、使い切って死にたい」、易しい言葉だが武士の真剣勝負を彷彿させる。
奇人変人とみなされ「とぼけ役」を演じ続け一生を終えた人だが彼女の言動は切れ味鋭い「名刀正宗」と重なる。
私も残された時間は「カウントダウン」出来る処まで来てしまったが、彼女の名言「・・・何事も面白がって平気に生きる」肩肘張らずに淡々と生きる。「年よりの流儀」とすればこれ以上の姿勢はない。
そんな訳で敬愛する樹木希林さんの元気な頃の遺影を掲載した、表題に完全燃焼を持ってきたがこれは百歳まで生きたとして全うしたい私の心意気であり、彼女の「じぶんを十分に使い切って死にたい」に100%通じる心情である。
100歳まで生きる自信など、毛頭ないが、日々、冥土の旅の終点に近づいている事は紛れもない事実であり、その事を忘れて過ごせば悔いを残すことになるような気がする。

人知らずして搵らず(怒らず)


年と取ってくると論語が身近になってくる。
代表的な論語が「老いては子に従え・・・」であろうか、2500年前の人生訓が現在でも脈々と生き光沢を放ち生きる手立てになっている。日本人は勤勉な民族であるから「孔・猛・老」が説く人生論語が好きなのだ。
人知らずして温らず(怒らず)は「自分の事を相手が知らないからと、怒ってはいけない」という事らしい。
兄弟身内、親子夫婦でも「俺の事を全然わかっとらん」と感情的になり殺傷事件に発展する場面があるが、他人はさておき身内の諍いこそ「骨肉の争い」で悍ましいものはない。
最近、高千穂で親子6人殺害事件があり、容疑者の次男が自殺したが、これなど典型的な事件である。
過度な期待をしたり、人間関係に執着するあまりこのような痛ましい事件が多発する。
他人が理解できないのは「当たり前」、どうかしたら自分自身でさえ分別を失えば分からなくなる。
「老いては子に従え」も日本人がよく好む代表的な論語である、古代〜近世に至る時代は家族社会で農耕も狩猟も大家族で維持してきた歴史がある、2,3代が同居する家族社会では子供が大人になれば政権交代で権限移譲するのが動物社会の慣習でもある。
然し乍ら現代は核家族社会になり「親子がバラバラ」に暮らし、自分の価値観で暮らす構造では、この論語の教えは当たらない、親子は互いに依存せず独立した関係が望ましい。
私は親子であればなおさら互い人格を尊重、「立場と部を弁えた」大人の付き合いが肝要と考え、そのスタンスで生きている。

年よりの流儀


近未来の将来、私本の自費出版を計画の一つにしているが「題名」が決まらないと、文章の絞り込みも出来ず苦慮していたが最近になって輪郭が見えて来た。
「年よりの流儀」でこれから纏めていきたい、私と同じように悩み迷いながらも一生懸命生きている人間は日本中に履いて捨てるほど居るのではないか、彼らの共感を得れるかどうか疑問だが、そんな事には執着せず思いのままに散文を執筆したい。
年よりの流儀は余命を無駄にせず「自分に正直に生きる」一点に尽きる、人生における反省事項をしっかりと精査し、今からでも出来る事は、思い立ったが吉日「本日只今から」即実行。
自分に正直に生きようと思えば少々摩擦が生じたりもするが、そこは身近な人間には理解してもらうしかない、年より同士の衝突があれば、50歩譲って年配者を立ててやる。
人には年よりの「我」を認めさせ、自分がそれを反故にするようでは説明がつかない、年よりは筋を通した生き方が求められる。
自分に対しては厳しく対峙し、他人の人格を尊重し人生の先輩として優しく毅然とした態度が理想的である。
自然の草花を愛でる事も務めて心がける事により「自然の摂理」が読みとれて来る、人に生まれ人として死ぬ事の意義は何なのか、考えることは自分に対して最後の使命かも知れない。
紅葉は落葉する少し前に表情を変えて散る、散りぎわに最高の趣を魅せ、そっと散る。