人間関係を考察する。

この齢になって人間関係の極意とは何ぞや?
考える機会が多くなった、それは自分の人間関係において疑義を感じる場面が多いからだろう。
私の人生観の中では分かり難いのは世の常で人間ほど複雑怪奇な動物はこの世に存在しない、という
部分では観念的にも承知して人間関係を作って来た訳であるが、改めて思う事は矢張り行くところまで行ってみないと見えてこないという事。
私も私なりの価値観で広く世間を渡り歩いてきたが、考えてみれば折々に友情を感じ兄弟に近い処迄の付き合いをしながら、思わぬ場面に遭遇し断交、苦い思いで人間関係をしばしば清算した。
商売の足し、選挙の足し、何かの足し等々、自分の足しに成るか為らないか、大きな要件であるが
私は相手半分、此方半分の関係で人間関係、友人達を作って来た自負がある。
それが私の理想であり物理的に言えば相乗効果のある人間関係の構築と維持である。
私が自ら断行した人間は殆どにおいて約束の不履行、信義の反故、道義的な問題等であった。
多分これから先もこれらの問題に遭遇する事であろうが、この部分は譲れない、ここまで来たら損得なんか別勘定で、楽しく時間を共有し自然体で付き合える人間関係を大切にしたい。
人間社会とは本来そんな世界でなければならない筈なのに、理想が低いのかそんな事を考える希少人種が衰退し体質が変化して来ているのか。
とにかく住みにくい世の中にコロガリ始めている。

初めての尾道。


海が見えた 海が見える 5年ぶりのふるさとの海はなつかしい・・・林芙美子の文作。
長い間、行ってみたいと思っていた「尾道市」、念願かない一泊で訪ねた。
尾道市林芙美子の名作「放浪記」で全国的にも有名であるが、近年は町歩きの名所として若者達がフラッと立ち寄り何かを感じて時に居付てしまう「ナントナク不思議な町」。
娘時代の林芙美子尾道の女学校を卒業したが、幼少の頃から親の都合で流転、上京後は男性遍歴で苦労を重ねる、彼女ほど前半正と後半正格差の激しい人生を歩んだ女流作家もいないのでないか、その人生体験が名作「放浪記」を生んだ。
中学〜高校時代に亡き母に林芙美子の話はよく聞かされ私の中では尾道に対する「慕情」のようなものが潜在していた、千光寺から尾道港にいたる古びたアーケードの入り口に芙美子像がひっそりと設置され銘板に冒頭の句が刻まれていた。
女流文学者として開花、全盛時に宴席をハシゴ、心臓まひで急逝した、将に「花の命は短くて・・・」無情である。
暗いイメージの尾道だが港周辺は活気に溢れ若者たちの町である、空き家を有効活用、色んな小店が営業、町全体で商いに取り組み、商魂逞しさと見事な町づくりに感服する。
芙美子の半生と亡き母の半生が重なり楽しい気分にはなれなかったが、長年の想いを叶え、充実感を味わえた事は、私の人生行脚で一つの目的を果たしたような気分である。

最後の同窓会。


11月22日、五島市福江島で五島高校、同期の同窓会が有り、五島灘を渡り旧友達と旧交を温めて来た。
喜寿を迎え、皆が好々爺になる年齢であるが、今の年寄りは都会も田舎も余り変わらない、好々爺でなく「チョイワル爺」の雰囲気を持っている。59年前、学窓を背に全国に散らばった同窓生約250人の中で72名の参加者であった、何と3,5人に一人が参加した事になる。遠くは関東から飛んできた懐かしい顔、卒業以来初めて逢う友人達もいた。

来れない者は一筆便りで近況報告、健康上の問題で来れないと老人病にかかっている。
喜寿迄くれば流石に現職は自営業の者だけで、私みたいな者は希少価値があるが、同世代の者とは大きく住んでる世界の違いを感じた。
一様にいえる事は今は何とか元気だが先々不明で死刑台の順番待ちと同じ何時お迎えが来るかわからい風前の灯、これが共通項である。

心の中で互いにこれが最後の再会と言い聞かせて岐路についたのではなかろうか、元気で島に帰つて来た友人たちはある意味、人生の勝利者ここまで来れば「地位も名誉も財なんか関係ない、元気で長生きした者が勝ち」不幸にしてここまで来れず道半ばで帰天した友人達も私の周辺には特に多い、早逝組友人たちの墓参りは殆ど済ませたから思い残す事はないが、何となく死神を背中に感じて生きている。

「長崎県の財政」事情と「石木ダム」事業


写真は川棚町石木ダム計画地域
毎月長崎県から県内全戸に配布される「つたえる県ながさき」10月号が届いた。
今月の主な特集記事は「長崎県の財政事情」と「石木ダム早期完成に向けて」であった。
平成29年度一般会計決算では国からの交付税が減少したにも関わらず税収の伸びで収支差額204億円、次年度に195億円繰り入れし9億円の黒字計上である。
4年前の収支対比では収入は24億円の微増、支出は103億円増、財政力指数、経常収支比率は全国47都道府県中で43、40位と最後尾に近接している。
今後の課題として更に行財政改革を積極的に見直しを進めていくと言及されており、町議会に身を置く者として県の努力は評価したいが、このような厳しい財政運営の中で「石木ダム」の事業推進に関しては全く理解に苦しむ一人である。
将来に禍根を残さない為に長崎県、県議会は勇気をもって見直しすべきではなかろうかと提言したい、この事業は昭和47年、佐世保市の深刻な水事情の中で起案され50年の年月が経過、当時は治水利水の両面から必要性は有ったのだろうが、この半世紀で当時の問題は殆ど解消されているのではないか、現時点で将来予測に立って事業評価すれば採択不能ではなかろうか、無駄な公共事業で県民全てに負担を強いるだけの事業になりはしないか、長崎県の公共事業として先ず県議会において真剣に議論し事業費負担者である県民全ての意思を再確認して貰いたいものだ。石木ダム事業の内容を知る議員で必要性を感じている者が果たして何人居るだろうか、議会が住民の代理者として、再検証する事は大して難しくないと思う、事例は熊本県川辺ダムにある。

 *この書き込みは新聞投稿用に書いた。

希代の名優 樹木希林


「おごらず、人と比べず, 面白がって平気に生きれば良い」 先日74歳で逝去された樹木希林さんが生前、日々自分に言い聞かせ生きぬいた心情である。
高倉健裕次郎吉永小百合,昭和の大スター以上に彼女はスクリーンの中でいぶし銀の様な鈍光を放ち、寡黙な演技で存在感を示した、彼女ほど主役を引き立て乍、映画の世界を現実的なものに変換した俳優は多分いないのではないか、役者を感じさせない役者だった。
そして彼女ほど脇役でありながらファンを持っていた女優もいない。
最近の出演作「あん」「万引き家族」の彼女はヨボヨボ婆さん役だが凄味さえ感じた。
たぶん彼女の内なる部分で台詞、所作以上の演技を演技を超えて自然体で見せて呉れたからであろう、自然体で出来れば演技でなくなる、役と一体になり役の中の人物になり、ドラマを現実と受け止めその中に生活する。
多分彼女は混然一体とした世界の中で生きていたのではないかと想像する。
彼女の残した言葉の数々も簡単明瞭でごく普通、当たり前の事を言ってのけただけではあるが、その通りの事を軽く自然体で対処している、言行一致、気張らず黙々と今日まで生きて来た内側にあらゆる事柄を面白がっていたとは、天晴れとしか言いようがない。

希代の名優、希代の処世人とは彼女のような人物か、処世術とは世渡りが上手で如才のない人間を指すが、本物の処世人は自分を曝し何事にも執着せず、最善を尽くし結果を良しとする人間「裏を返せば世渡り下手」だが自分に忠実、無欲無心の言動故に相手からも理解される。
樹木希林さんは私から見ればそんな風に見えた空気の中の酸素のような人であった。

猫の目の不思議


この半年間、JICA草の根技術支援事業提案書作りに明け暮れ神経を消耗している。
2年間の心労が10月からの審査で問われる事になる「待尽力天命」の心境だが相手国の関係者は一刻千秋の想いで待機、全身全霊、叡智を絞り出し難関突破を自分に期待している。
疲れた心身を癒してくれるのは子連れで出入りする「近所の猫たち」甘えた猫撫で声で附かず離れずの距離を取り生後2,3週間の猫達がすり寄ってくる、猫達の目には不思議な表情が有り千差万別、何とも表現しがたく只々神秘的である。
ねこ語が分かれば会話がができ面白いのだが、と残念に思う。
夏目漱石も「半分うつ」で引きこもり症候群だったらしいが、ある日突然侵入してきた「猫」に魂を奪われ小説の主人公にしたところ読者に受け猫力で開運したとある、漱石は猫語を理解したのだろうか。
かわいらしい猫達だが猫にまつわる表現は全て良くない、猫は人間にかなり貢献しており、猫に対する侮辱も甚だしく猫が知ったら猫パンチが飛んでくる。
冷たく光る目で人を見るのは人間の本質を透視し猜疑心を持っているのではないか。

人間は表情と内心と行為を使い分ける不思議で不可解な生き物、動物は内心と行動、表情が一致する単純明快な生き物、中でも猫は格別、目の表情を使い分け語りかける、庭の番犬カンタローが居なくなり猫たちが庭を占領、走り回っている。
生きとし生けるもの「来るものは拒ばず、去るものは追わず」猫も人も同格これが私の信条。
今日は肩がカチカチに固まってしまった。

「生きる力」の謎


9月は議会日程、継続的な現場工事の監督等でブログを書く気になれなかった。
人生最後の挑戦にコラムを編集してエッセイの出版を秘かに考えているが、終着駅間際で最後の力を振り上手く仕上げて味のある内容で纏めなければならないが処だが、どちらを向いても面白くない事だらけで社会が無味乾燥状態、書くこと自体が無意味に思えて気合が入らない。
特に夏の終わりに友人知人が急逝、私にも死神が刻一刻と接近してる予感、来るなら来てみろと腹を据えて構えているが、断捨離も全然で今、死神が来たら待って貰わないとボロ隠しも出来ず死に恥を晒す事となり、せめて男の平均寿命迄待機して貰おうと大義名分を考えている。

初秋の残照風景を掲載したが最近はきれいな夕焼けの風景より、暗い山肌に沈んだ夕陽の残照が気に入っている、美しく見えるものより、美しくはないが美しさを秘めた残影に美しさを読み取る事ができる風景、心象的な風景に惹かれる。
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ        定家

人間性も同様で身分の高い人物、えらい俗物、天下の総理大臣より無宿人尾畠春夫氏が私には人物に見える、嘘と慾、虚飾にまみれた人間社会、喜寿を迎え最終章に入りこの世に半分以上愛想が尽きたようだ。
考えてみれば赤ちゃんの時は「人間の子も犬猫の子も無欲無心」全く同格、成長するにつれ人間は悪賢く怪しくなって行く、これは生きる手段の進化の姿なのか、複雑怪奇な人格者にならないと人間社会を生き残れないのだろうか、人間社会が人間性を剥奪して怪人に仕上げてしまうのか、生来の遺伝子によるものか。
悲劇的な自然の摂理、それが現実社会なのか、生きる力の人間性なのか。
一つだけ面白い事に、この世が嫌になった頃、人生の終着駅に到着するようになっている。自然界の仕組みは良くできている。