「百年無人生」生きてやるか…。

最近、身近な友人と「死ぬ事」「生きる事」「死に躰」等について互いに吐露する。

話の入り口は私が齢80にして益々元気旺盛?・・・「貴方は百歳まで持つよ」と言うのである。

「人生無百年」を人生訓に日々完全燃焼を標榜する私には「百歳」は嬉しくない。

然し乍、長寿社会到来で現実に百寿は確実に増え私の身近な処に7,8人位は居られる。

人間の寿命は自分の領域を超えた宿命であるような気がするが、寿命育成も多大だろう、私自身、今日まで病気O、怪我O、交通事故O、風邪もひかず、薬も飲んだ事が無かった(最近、医者に脅され服用)。

特に目的があつた訳ではないが、議員公約に高齢者の健康増進をマニフェストに入れ、率先垂範の手段として7,8前から登山、ウォーキング。生涯無病を視野に適酒、断煙の生活改善、その結果▶体調は万全、私自身が獲得した対価。

そんな会話をしてる内に俺はその気になれば「百歳」まで生きれるかも知れない、と思えて来た。

思い起こせば、10年位前の支持者の老婆が「百歳まで活躍して欲しか…」と「錦糸亀」をプレゼンされた事が思い出す。

考えたことも無かった百寿であるが問題は「生きて何をする…」「社会の足しに成れるのか…」「独居で自立できるか…」「自己の尊厳保持…」多々難題を抱える事になる。

自然界の生物は役割が終わればお陀仏、これば万物の宿命。

役割が終わり隠居年寄りを「粗大ごみ」と酷評した非人も居たが、やはり自然の摂理は曲げられない。

自分が生き残っても家族、友人達が死んで終えば浦島太郎と同じで異次元の世界。

毎日毎日、お迎えが来る日を恋人を待つ気分で待つことになりはしないか?

愉しくない消化試合の侘しい毎日を迎え送る事になる。

これほどの苦痛は無いのではなかろうか。

「百寿長命は牢屋に監禁/拷問」等しくなりはしないか.

「終わり良ければ全て良し」の反対、終わり悪ければ人生の全てが惜しまれ…

 これほどの不幸が何処にある。

「百歳まで生きてやろうか」等の邪念を捨てて役割が終われば人生劇場からザッと退出した方が絵になりそうだ。