母校に感謝・・・


来月五島市に行く予定で現地の用件を仕分けしているとやたら母校が懐かしくなり五島高校を訪ねて見たくなった、私が卒業した昭和35年は日本の高度成長期に重なり中学卒業生は金の卵と持て囃され集団就職で都会へ都会へとベルトコンベアに乗せられて行くかのように離島。

高校を卒業し島に残った者は家業の手伝いか農協、役場、郵便局程度で次男三男は京阪神の工場地帯に就職、私にも教員養成所とか、役場の伝手はあったが事業家を目指していたので名古屋の中小企業に就職、仲が良かった同級生とも進路を違え其々が自分の道を求めて島を後にした。

考えてみれば純粋な青春時代は高校生の時だけだったのではないか、、他愛もない事に悩み、世間も知らずに大きな夢を抱き、友人達とは我武者羅に遊び、最後は切ない思いを胸に抱き長崎行きの船に乗った。
五島を離れ57年の年月が経ち、同級生も早逝した者、都会に居を構え都会人に成り切った者、半世紀の中で月より遠い処に来てしまったような気がするが、私の中では今だ母校を卒業できていない自分を時々に思う。

ある事情から五島福江市の至近距離に職住の地を求め長崎で暮らす事にした、この判断は大きく狂ってはいなかったと自負している。
ふるさとから海上100kmの距離に住む私ではあるが、犀星の心情あふれる詩「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・」痛いほど理解できる。
母校の校歌も私が好きな中島哀浪作でこの歌詞に幾度となく励まされ自分を鼓舞してやって来れた、仮にも母校が五島高校で無く同窓の友人達と交遊が無かったら今の私は存在しなかった。

             *写真は県立後藤高等学校、石田城の正門。