鷹島殉教400年祭


6月11日 長崎大司教区高見大司教を迎えて時津港外「大村湾無人島」漁船で10分の距離に位置する「鷹島」で表題の通り殉教400年記念祭が司式された。
1617年6月1日二人の宣教師が斬首され棺と共に海底に没す、記念碑から年代こそ違え私の生年と同月同日(324年前)で有る事から関心を以って記録を調べ、史実周知に鋭意努力してきた経過もあり感慨を持って殉教ミサに預かった。
殉教とは信仰の為に自らの命を呈する事である、長崎の歴史はキリスト教迫害の歴史であり受難の歴史である、7月の世界遺産にノミネートされているが後世の栄光を彼らに捧げたいものだ。
一方「国内外では権力に憑りつかれた政治家」が忖度政治を官僚に求め墓穴を掘っている、日本もそうだが、米国民など哀れな気がする。
権力という名の魔物に憑りつかれ「人間喪失」している、トランプもアベ総理も「裸のオオ様」不名誉な事件に関与し、
形勢不利を開き直って突破しようとしている。
コミー前FBA長官、前川前事務次官の方が勇気もあるし、人間的に正義と誠実を保持している、このままいけば二人とも
不名誉な烙印を押され歴史に名を残す事になり特に総理は失笑を買う。
福音書の「人もし全世界を手握るとも、もしその魂を失わば何の益にならん」日本にキリスト教を布教したフランシスコザビエルが愛した言葉らしい、人間の価値観は「万人万色」云々言えない部分は有るが「正義に照らして如何か」の物差しで測れば答えは一つである、「残学菲才」の私にでも理解できる「倫理」、彼らには通用しないなら暗黒時代の宰相。