庭のけやき


「選良」という言葉が有る、広辞苑では「選ばれた優れた人、選挙によつて選ばれた代議士」を指す、とある。
世界各国 、政治家は選挙で政治理念と理想社会実現を訴え、その洗礼の中で選ばれた者たちが「選良」となり国政に参与、国民の代表として、国家将来の安泰と国民生活向上に寄与する使命と義務を持つ、これが選挙民が求める「選良」でなかろうか。
現実は如何であろう、昨今、「選良代議士」のスキャンダルが芸能人並みに週刊誌等に報道され馬脚を現している。
スキャンダルも女性問題が殆どでワルさがバレて泣き面で詫びるガキの仕種と変わらない、もはや選良は死語になったと嘆いた著名人がいたが同感である。
「選良」ならぬ「選劣」が相応しい、私も末端の議員、いとこかはとこ、思えば成り立ての頃、議会=疑怪、議員=疑員の印象を持った記憶がある。
高度成長期の60年代、経済は一流だが、政治は三流と評されていた、半世紀後の今も変わらないような気がする。
特にあさましいのは権力闘争、地位(椅子)獲得競争、能力のない人間ほど固執しているようだ、立場、地位で人間の価値が決まる訳では無いのに・・・。
写真に掲載した我が家の欅はかれこれ35、6年になった、地中深く根を張りセミの幼虫に樹液を与え、私には太陽の日差しを遮り日陰を提供、秋が来れば落葉し大地に養分を与えつつ自らを養い、果ては小鳥たちにまで憩いの場を与え黙々と佇む、人間に例えれば超大仁、人間社会で隣人を欺きながら得難いモノを確保しても、ひと時のモノに価値は無く、借りモノ、預かりモノなら尚更である。
人生の教訓を何処から学び、どう処するか、学びの先達は人に拠らず、生命を宿す全てのモノの中に有るかと思う。