鬼気迫る〜80歳

今日の長崎新聞五島市の仕事が記事にされていた、「樫の浦のアコウ樹」案内板が写真入りで載っていた。
イロンナ物議をカマセタ仕事ではあったが後世?に残る仕事が出来た事は事実で充実感はある 仕事が出会いを作り、更に拡がりを創り、事業の社会環境が拡充されて行き、信頼関係も構築されていく 此れこそ本来の仕事であると自負していたが、フイーリングの異なる相手とは発展的に取引を継続していく事は難しい。
考えてみれば仕事を通しての出会いもあるが、仕事をすることによる離反もある、利害関係だけでなく仕事をして始めて見える人間性に疑念が湧く場面があるからだ。
 何事もなければ見えない性格の一端が 或る瞬間に垣間見える 許容範囲を超えていれば心の中で GOOD BY である・・・そして公私に渡り・・・決別、人間社会では毎日毎日、相手と振るいに掛け合いながら生きていると言っても過言ではない。
商売人は度量が無いといけない、姑息な人間とは先を語れない、男同士その気になれば大仕事が出来るモノをと情けなく思う、ママヨと諦めよう、語るに落ちる。

支持者の事業所を訪ね展望を尋ねた、産業廃棄物の処分場を経営しているが80歳にもなろうかというのに大した執念 後継者もいないのに数千万の投資をして事業再開の執念は何処から来るのか、投資金額を生存中に回収する事は殆ど不可能に近い、今でも半死半生の身である。
脳梗塞言語障害もあり会話も不自由である、人は常識で量れない生き方をするモノ、
「明日死すとも今日に生きる」ナカナカ真似が出来ない生き方である、経済力が無いとコンナ事は出来ない。
生きる力を事業に求めて最後の最後まで意欲的な生き方をしている姿は年寄ながら迫力があり、鬼気迫るものがある。私が同じ立場なら如何するか?自問するが彼のような生き方は出来ない、もっと自然体で自然の中に「生活の場」作り、生甲斐を求めるのでは、と思う。