「余生」の生き甲斐

余生という言葉は好きではないが、男の平均寿命81、6才なら、それを超えれば余生、「残余の生命」と考えても良いのではないかと、も思う。

7,8年前、福田か樫山地区、お寺の住職から余生をテーマにした法話を聞く機会が有り曰く、人生に余生などない…が結論に我が意をて拍手した記憶がある。

住職等は人の生死を生業にして仏教伝来の1300年前から黙々~木魚とチンを叩き脈々と暮らして来た訳でそう考えるのは当然。

私の場合「時は命なり」の人生訓の中で培ってきた絶体的信条、100まで生きても余生など無く、多分その段階でも何かしてるだろう。

身体は畳1枚のスペースであつても何かしてる、考えている。若しかすれば妄想の世界で生きてるかも知れないが・・・

生き残り組の友人達にどんな暮らしをしてるのか、会話に中で話題になる。

暇を持てあましてる…人間がなんて多い事か(>_<)

俺に手を貸してくれ、と頼んでも暇な人間ほど腰が痛い、足がいたし、息苦しい云々

で非協力的で、忙しい人間ほど元気で協力的。

家で横になってるのが、一番気楽で身体も楽なのは誰しも同じだが生活感、大きくは人生観の相違、長い年月の中で健康状態に置き換えても天地の開きが出てくる筈なのに。

勿体ない暮らしをしてる、とつくづく思う。自滅への坂道をひた走ってる。

 

 

現住所は何処....(*_*;

樹々の若芽がボツボツ見受けられ春の息吹を感じる

世の中はコロナ~オミクロン、ウクライナにロシア軍の攻撃が始まり、首都キエフに迫った、と日々戦況が報道され益々深刻さが増している。

NATOも欧米も歩調を合わせ非難、夫々が国内問題に抱え、ウクライナ問題でロシアの脅威を焚きつければ自分の問題をかわす事が出来る思惑も垣間見える。

顛末は予測不能だが一つ間違えば大戦争に発展する事も考えられ予断を禁じ得ない。

表題に戻るが、今日は香焼から五島灘を見て来た、特に対した用事でなかつたが何となく五島灘を見たくなった。

離島の田舎小僧が青雲の志を持って五島灘を渡り、60年余の歳月かけて何やかんやで日本国中を殆ど廻って、結果、終点が長崎。

現在、長崎市の端、西彼時津町に暮らし半世紀近く、終の住まいで寝食。

家を建てた時は若く子供達に部屋を作つてやるような気分、終生ここで暮らす事になるとは爪の垢程も思わなかった。

歳月は光陰の如く、瞬く内に齢80で年甲斐もないGGになり自分の現在地、戸籍上の

現住所でなく、何処に軸足を置いて生きて来たのか自問する。

明快に自分を納得させえる答えは出てこない。迷子になったら原点に帰れと先人に言われたことを思い出し心の奥底にそんな思いもあって五島灘を見たい気分になったのか。

分かったようで分かっておらず、分かって無いようで以外と分かっていたり…訳わからない内に人生双六の終幕か、煙幕に包まれたような不透明、不可思議な人生、それでも悲喜こもごも半分半分きれいに勘定だけは合う。

 

 

 

 

「果てる…」という事

終末期になると様々な事が頭をよぎる。一番気になるのは自分に「何時お迎えが来るか」かという事だろう。

平均寿命を過ぎれば後はオマケと自分に聞かせて来たが、今日まで来たが、今その段階でマダマダ生きれそうで、道半ばの仕事も2,3つじゃなく6,7件、最低でも現役で6,7年位頑張らないと目途が立たないようだ。

何の因果か、性分か、分からないけど自分が蒔いた種、若しくは育てて来た案件なので

中途半端には出来ない、最後は半端でも難破でも仕方がないけど、今は現役の延長線上と言い聞かせ年齢の事を考えずやるしかない。

「果てる」という事は、「終わる」という事、命に終わりがあつても役務に終わりはなく、誰かが誰かにタッチし延々と持続され新たな形になっていく、それが進化だ。

科学も文明、文化も段階的に確立されていく、事業も社会も時間と共に確立され重合されて行く。そんな考えに建てば「命」を除いて果てるものはない。

生命の有る生き物は必ず死ぬ時が来る、それが生物、死なない物を生物とは言わない。

そう考えれば、引かれ者の小唄ではないが愉しくなる、孫正義が何十兆円儲けようがイーロンマスクが火星に仮想通貨で世界一の資産家になろうが、私よりたかが2,30年長生きするだけで天国に行ける訳はなく行くところは一緒、上下も天地も無い。

この世は差別、階級、貧富の格差社会だがあの世は虚無、0の世界、何もない。

ある意味「果てるとは全てがリセツトされる」いう事。

 

 

 

 

世界から日本を見る

ロシアによるウクライナの侵攻が開始され、今日で3日目。

事態はロシア軍が首都キエフの接近、陥落寸前で停戦協議がベルルーシで始まった。

昨日、ウクライナのゼレンスキー大統領は徹底抗戦を国民に呼びかけ、今日は夕陽が沈む前に翻意、停戦を申し出た。翻弄されたのは国民で無益な紛争に巻き込まれ市民に犠牲者が続出、一部の国民は国外脱出を始めた。

そもそも、勝てるはずのない紛争に応戦、形勢も読めず3日目でGive up 、お粗末さは

開戦前から分かっており無能が国民を犠牲にした。

自分と閣僚の命乞いを引き換えに停戦、和解、NATO加盟の見送り、非軍事化等,ロシアの要求を悉く裏で受諾し、国民と国際社会を欺く事だろう。

ゼレンスキーは俳優出の政治家で本来、難しい国家元首の資質などある筈がなく国民の人気投票で選ばれたに過ぎない…選ぶ方も選ばれた方も不幸~同罪。

お粗末な元首を作ればツケは国民に回される…良き事例になる。

翻つてわが国でも、北朝鮮による拉致問題をあろう事か他国の大統領に頭を下げて頼む不甲斐なさ、異常さ、分別も勇気も無い政権が国政の舵取りをしてる。

本気になれ知恵も勇気も出てくるのだけど本気にならんから何も湧かない。

先の短い年寄りは諦めもつくが若い人は大変、韓国の全羅南道で難破した豪華客船の様に転覆した上、客は波浪の泡になりかねない,オ~怖ッ。

 

残された時間…

久しぶりのブログ、もう書くのを辞めようと決めていたが、待てよ今まで書いたブログが無駄になり、処分するのも勇気がいる。

いっその事、自費出版で本にするか、そんな誘惑も自分の中であり、先の事は見えないが私の信条は最後の1分までベストを尽くす事にあり、行ける処迄まで行く事にした。

考えて観れば、半年間に私の敬愛するOB議員が2名、現職1名急逝され、死神は確実に私に接近している。

夫々、6歳上、同年、5才年下とランダムな構成で読み辛いが、70才過ぎたら順番はなく

誰が逝っても可笑しくない。

私の中では男の平均年齢81,5歳が節目のゴールでそれから先はオマケ、オマケからのライフスタイルはあまり考えず「好き放題に生きる」と考えて楽しみにしてきた部分もあるが、今、将にゴールの門前に建ち自分の健康状態、精神状態、身近な生活環境を考えたら、マダマダ死ねない、死んだらアカン、やらねばならぬ事が山積している。

世間的に考えれば、何を今更のブーイングを恐れないでもないがカケガエノない残余の人生を考えればスイッチの入れ替え世間的な考えから一点突破しチャレンジしなければならない、こんな気持ちでブログを更新する。

巨木 逝く…。

敬愛する先輩友人のU氏がご逝去。

私が35,6才の時からの知己を得、社会人、議会人としてもご厚誼を頂いた。

高齢で逝去は人間の宿命であり仕方ない事であるが、ある時期、同僚議員として

多々ご指導、ご教授頂いた事は忘れがたく恩人の中の因人。

正義感、使命感、義理堅い人物でおまけに男前、今でいうイケメン。

真面目なジェントルマン故に浮いた話など一切なく堅物系の人物であった。

次男坊が地域のボーイスカウトで、前後するが公私に渡りお世話になる。

オマケに町長選挙時の訴訟に合い「被告」席にまで付き会った…。

議員歴30年位で叙勲対象になり栄誉は手にしたが残念ながら議長には成れなかつた。

キャリアも人格を兼備した人物で本来なら議長席に座って怒るべき人間で有りながら

国会でも同じ事であるが少数派、正義派、信念派は、雑多な多数派には勝てない。

「努力は実る」社会が当たり前なのに議会は異次元の世界で正直者がワリを喰う。

 

表題に巨木と表記したが「彼こそ巨木」いかなる大風が吹こうが真実一路、我が道を行く…大いなる凡人で偉人。

同じ社会環境の中で同じ空気を吸い、同じ価値観で行動した事を感謝したい。

故人に対する感謝の気持ちをこんな文言にかえて表すことは到底出来ない。

U氏は死んで骨となり墓場の人になるがお世話になり受けた薫陶は私の中で終生生き続ける…言霊として。

 

 

「百年無人生」生きてやるか…。

最近、身近な友人と「死ぬ事」「生きる事」「死に躰」等について互いに吐露する。

話の入り口は私が齢80にして益々元気旺盛?・・・「貴方は百歳まで持つよ」と言うのである。

「人生無百年」を人生訓に日々完全燃焼を標榜する私には「百歳」は嬉しくない。

然し乍、長寿社会到来で現実に百寿は確実に増え私の身近な処に7,8人位は居られる。

人間の寿命は自分の領域を超えた宿命であるような気がするが、寿命育成も多大だろう、私自身、今日まで病気O、怪我O、交通事故O、風邪もひかず、薬も飲んだ事が無かった(最近、医者に脅され服用)。

特に目的があつた訳ではないが、議員公約に高齢者の健康増進をマニフェストに入れ、率先垂範の手段として7,8前から登山、ウォーキング。生涯無病を視野に適酒、断煙の生活改善、その結果▶体調は万全、私自身が獲得した対価。

そんな会話をしてる内に俺はその気になれば「百歳」まで生きれるかも知れない、と思えて来た。

思い起こせば、10年位前の支持者の老婆が「百歳まで活躍して欲しか…」と「錦糸亀」をプレゼンされた事が思い出す。

考えたことも無かった百寿であるが問題は「生きて何をする…」「社会の足しに成れるのか…」「独居で自立できるか…」「自己の尊厳保持…」多々難題を抱える事になる。

自然界の生物は役割が終わればお陀仏、これば万物の宿命。

役割が終わり隠居年寄りを「粗大ごみ」と酷評した非人も居たが、やはり自然の摂理は曲げられない。

自分が生き残っても家族、友人達が死んで終えば浦島太郎と同じで異次元の世界。

毎日毎日、お迎えが来る日を恋人を待つ気分で待つことになりはしないか?

愉しくない消化試合の侘しい毎日を迎え送る事になる。

これほどの苦痛は無いのではなかろうか。

「百寿長命は牢屋に監禁/拷問」等しくなりはしないか.

「終わり良ければ全て良し」の反対、終わり悪ければ人生の全てが惜しまれ…

 これほどの不幸が何処にある。

「百歳まで生きてやろうか」等の邪念を捨てて役割が終われば人生劇場からザッと退出した方が絵になりそうだ。