「生きる力」の謎


9月は議会日程、継続的な現場工事の監督等でブログを書く気になれなかった。
人生最後の挑戦にコラムを編集してエッセイの出版を秘かに考えているが、終着駅間際で最後の力を振り上手く仕上げて味のある内容で纏めなければならないが処だが、どちらを向いても面白くない事だらけで社会が無味乾燥状態、書くこと自体が無意味に思えて気合が入らない。
特に夏の終わりに友人知人が急逝、私にも死神が刻一刻と接近してる予感、来るなら来てみろと腹を据えて構えているが、断捨離も全然で今、死神が来たら待って貰わないとボロ隠しも出来ず死に恥を晒す事となり、せめて男の平均寿命迄待機して貰おうと大義名分を考えている。

初秋の残照風景を掲載したが最近はきれいな夕焼けの風景より、暗い山肌に沈んだ夕陽の残照が気に入っている、美しく見えるものより、美しくはないが美しさを秘めた残影に美しさを読み取る事ができる風景、心象的な風景に惹かれる。
  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ        定家

人間性も同様で身分の高い人物、えらい俗物、天下の総理大臣より無宿人尾畠春夫氏が私には人物に見える、嘘と慾、虚飾にまみれた人間社会、喜寿を迎え最終章に入りこの世に半分以上愛想が尽きたようだ。
考えてみれば赤ちゃんの時は「人間の子も犬猫の子も無欲無心」全く同格、成長するにつれ人間は悪賢く怪しくなって行く、これは生きる手段の進化の姿なのか、複雑怪奇な人格者にならないと人間社会を生き残れないのだろうか、人間社会が人間性を剥奪して怪人に仕上げてしまうのか、生来の遺伝子によるものか。
悲劇的な自然の摂理、それが現実社会なのか、生きる力の人間性なのか。
一つだけ面白い事に、この世が嫌になった頃、人生の終着駅に到着するようになっている。自然界の仕組みは良くできている。