60にして耳に従う

昨日、友人の還暦祝いを友人達とし、痛飲した。
孔子は「40にして惑わず」「60にして耳に従う」と論語の中で生き方を説いている。
 60にして耳に従う・・・とは60歳とも成れば経験も豊かで他人の話も聞き分けるだけの分別も付き、誤る事は無い、と言う事。
そして・・70にして心の欲する処に従いて則を超えず・・と続く。
論語の世界は道徳の世界、倫理の世界、実践哲学の世界にとツナガリ拡がる、世の中が荒廃無秩序になればなるほど道徳教育が叫ばれるが本来、人間はどちらなのか分らない、道徳は理想であり、人間の本性にあらず、人は出来ない事を標榜し、道徳を語るが、自分には頭で課し、行動では課さない、出来ないからである。
私も耳に従う境地で毎日を送迎出来れば良いのだが、現実は40にして惑わず、迄も到達していない、道は遥か彼方・・・
サクラも満開の峠を越えて散る方向に一直線、この散り際に趣きがある、風に舞い、ひらひらと花の命を、人の一生と重ねて描いてみせる、サクラが受けるのも、この潔さと儚さが同時にアルトコロ。
4月がスタートした、議会もオワリ、五島も完了した、次なる標的を設定し前進あるのみ。