「色即是空」の世界

NHKのテレビ番組で「世界遺産」が放映されている。
サブタイトルが 人は「どこ」から来て「どこ」に行くのか と問いかけてくる。
世界に点在する偉大な人間の営みを今に伝える遺跡、それらは誰がいつ、何のために造られたのか今だ解明されていない遺跡も多々存在するし、はっきりと歴史の史料があり果たした役割が記され、今日でも歴史的遺産、或いは信仰の対象として人々の生活に密着し係わり合いを持っている。
長崎でも「五島のカトリック教会群」「軍艦島:高島」等を世界遺産にと言う運動が為されているが、世界遺産のスケールからすると、コマすぎるし、説得力に欠ける、九州遺産位が手頃である、今度、何かの折にその筋に提言してみようと思う。

前言が クドラシクなったが齢、60を過ぎて小生が言いたかった事は、人は「どこ」から来てどこに行くのか ではなく「私がどこから来て、どこに行くのか」である。
「どこ」が何を指すのか「場所」だけでない事は事実であり、空間的(情念)なある世界のようにも思えるのである、頭の中ではある程度、私自身の事は理解できているけど、端的に文言では表現できない。さて、問題は「どこに行く」のかである、この場合の「どこ」は場所を指していないことは確実であり、精神世界、物理世界、人文世界を超越した宇宙的観念の世界か、それとも神と対峙する人間の立場、宇宙法則の中で地球自然界を支配し「司祭者」としての人間、そしてその体制を次の後継者に繋いで行く。
ならば私の場合はどうか、
父を戦争で失くし、母で手一つで育てられた。
健気な軍国の母は戦争遺児の私達を立派な社会人に育てる事を目的に大変な苦労をされた。
私達も成人となり社会で、母の期待を使命とし努力した、平均的ではあるが母に応える事は出来たのではないか。
先の者が「思いと使命」を次の者に託し更に後の者に繋ぐ、この形の中に輪廻がある。
どこに行くのか、私は今だ、道半ばであるが、母から受けた久保家での役割は半分果たした
完結出来るかは自信がないが、本来の目的を見失う事が無いよう「最後の一分まで正気で生きて行きたい」スベカラクこの世は「色即是空」であれば。