陽はまた昇る、か。


1月21、22日多良山系の五ヶ原岳に登山行、余り体調が良くなかった為、9合目付近で足はふらつき迷惑を掛けたが何とか最後まで登頂できた(写真)。
いつも近隣の山頂から多良岳を遠望し、当日は反対に多良岳山頂から長崎近郊の山々を眺望したが確認できなかった。下部からはハッキリ見え、上部から下は見え難い、人間社会の有様に何となく似ているように思えた。
山登りの醍醐味は頂上に立って下界を見る達成感ではなかろうか、四季折々の草木を観察しながら人生と重ねれば生かされている事も大自然の恵みと感受できゴツゴツの山道が逍遥の道に転化する。
谷村新司の歌に「陽はまた昇る」があり、歌いだしは「夢を削りながら年老いていくことに気が付いたとき初めて気づく空の青さに・・・」私の心境そのもので、谷村新司の精神構造がしっかり理解でき共感する。
現実、人生の旅は片道で取り返しがつかない暗夜行路を試行錯誤して生きている。
過去にはリセットでないばかりか進路は前方のみ且つ多岐に分かれており、一つ間違えば底なし沼に埋没しかねない。
私の場合は良き隣人に恵まれ大過なく長生き出来つつあり、時間割は「向後4年」4年を一生に見立て生きたいと山道を歩き乍、言い聞かせるている修験者のような自分がいる。

「松浦静山」の哲学


私の好きな野球評論家の一人に野村克也氏がいる。
ネットで紹介される彼のコメントには人生に通じる部分が有り味わいがある。
又、落合博満氏のクールなコメントも通じる部分があり、この二人が双璧。
同時に共通項は現役時代に名選手として一時代を築き上げた名選手であった、又監督としても他の追随を許さない実績を残した。現役時代は余り好きな選手ではなかったが球場を去りメディアを通じて報道される彼らのコメントに触れ共感を持つ、一芸に秀でた人間は現場の中に体得した哲学を感じさせる。
野村克也氏が松浦静山の名言「勝ちに不思議の勝ちが有り、負けに不思議の負けはなし」を良く引用し勝敗の岐路を解説してみせる。
剣の達人でもあった平戸藩の殿様「松浦静山公」が身を持って習得した真剣勝負の世界、野球においても、ビジネスの世界、人生劇場、全てに相通じる普遍の哲学である。
先人の人生哲学は時代を超え、処を超えて現在に生きているが、悲しい哉、人は自分が生きて来た生活体験の中にした先人の哲学を実学として知る事が出来ない。
経験を通さずに理解する事が出来れば失敗も過ちも犯すことはないのだが・・・。
「負けに不思議の負けはなし、裏返せば負けさえしなければ勝て、敗者は負けるべきして負け勝敗は立ち合い以前に決している」事になる。
私も喜寿の年齢にになり、今更、挑戦ではないが、晩成を期し今、取り組んでいるプロジェクトが実現すれば実社会に出て60年の集大成として昇華できるのだが。
この事案も静山流の哲学に当てればどうなるだろうか、最善を尽し努力に努力を重ね2年間積み上げて来た成果がどう反映されるのか。
春先はそういう意味で面白くなりそうだ。
          写真「多良山系の中腹から見る「玄冬の曙」1月22日撮影」

何もしなくて良い事のアリガタサ・・・


4月の改選時期が来れば述べ20年間に渡り努めた議員職を辞し晴れて自由の身に成れる。
地縁も血縁もない他郷で土地の方にも支えられ務めさせて頂いた。

一抹の寂しさも覚えるが解放感100%の環境でフルタイム好きな事が出来る喜びは至福の領域
義務的な事から解き放たれる境遇は社会に出て60年間で初めて体験する世界でそこに身を置かねば、現実的な気分は分からず、ワクワク感は否めない。
時間的、身体的には今も自由度100%で好き勝手に過ごしてはいるが、新聞読むのも仕事の内が習慣となり精神的拘束から脱却は出来ていない。

ある著名人が幸福論で「朝起きてする仕事がある人ほど幸せな人はいない」と言われた、一つの真実であるが「義務的仕事をせばならない人」ほど不幸な人も居ないのではなかろうか。
「逆も又真なり」言える部分もあるが、現役時代 馬車馬のように働き、老いて尚、働かねばならない境遇を幸福といえるのだろうか。

私的には、大空を悠々と流れる雲、名もなき野山の雑草を優しく掠める微風のように、自然体で好きな事をして暮らすのが最後に相応しく思う。
老境に入り「何もしなくてよい自由にありつける」という事は人生のご褒美のようなもの、その自由の中に「趣味の仕事があり、奉仕活動が有り、100%無駄な行為」があっても良い、義務的でなければ自分の意志でどうにでもなる。
私の場合は「自由度100%」の中で新たにトライしたい事が沢山あり、そこにどんな場面が待っているのか期待感で一杯だ。
           写真▶崎野公園の天空を流れる雲・

生かせいのち。


里山の自然に惹かれ山歩きを日課のようにしているが、道中この時期には珍しいハゼの木を見かける。
ハゼ、漆の木は秋に紅葉、冬に坊主になり里山で確認する事は難しく、冬の里山は緑一色になるのが常であるが、里山中腹にハゼの幼木が健気に朱色の葉っぱを大切に抱き咲いていた。
雑草と雑木に覆われ息も絶え絶えに咲いているかに見えながら、反面、毅然とした貴婦人の風格を感じる。
ハゼには少年時代痛い目に遇わされ、ハゼの下を通っただけで全身がかぶれ何度病院通いをしたものか、恨み骨髄の樹木で母には何度も治療代を払って貰い、今、考えると同じ事の繰り返しで母は特別怒りもせずその都度病院に連れて行ってくれた。
どうしようもないハゼではあるが「ハゼの実」から「和ろう」とれロウソクが出来る、又、近い種属の「うるしの木」からは漆器の漆塗りが生まれる。
里山が開発され野山の自然樹木「ハゼ・うるし」が消滅しつつあるが、古来、日本の生活必需品で有った。
嫌われ者の樹木ではあるが「生きる証」はしっかり立てている、植物といえども「生きるいのち」を自らに課し社会の為、人々に光を安らぎを与え、仏壇にあっては光明を放っている。
野に咲くか細い「ハゼの木」にも「生きせいのち」の有り様を教えられる。

心のふるさと「高野山」。

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高野山を訪ねたのは何年振りだろうか、多分14、5年以上にはなるだろう。
断捨離はモノだけに限らず私の中では思い出の中の人物や場所、し残した事への再現等も範疇であり、高野山も最後の参詣。
時間の都合で僅か20分間しか滞在できなかったが気持ちは満足、金剛峯寺の門前に写真の表示板がドーンと掲げられており、私に対する問責と重たく受け止めた。
「生かせいのち」簡単明瞭な問いかけではあるが、強烈な叱責、生きている人間に対する請求書にも見えた。
喜寿を迎えて尚、煩悩に明け暮れ、「これだ」の確信を持てず、思いつくままに生きてきた自分は今まで何処に居たのか、自責させる文言である。
高野山を訪ねる全ての人に対する問責、或いは修行の身にある僧侶達に対する訓戒の文言かも知れない、この「6文字」の秘める重さ、奥深さは果てしなく大きい、将に真言密教の「魔訶」。奥義が託されているかのように感じる。
残され時間が短く、なさねばならぬ事の多様さから考えれば、この時期のこの文言に出会えたのはご先祖の導きか。
これからの生きる指針として大事にしていこう。

「嘆きの壁」のトランプ氏


ユダヤ教の聖地エルサレム嘆きの壁がある、昨年2018年5月 米国のトランプ大統領イスラエル訪問時、この場所を訪れた。
今、米国はメキシコ国境に難民不法入国阻止の壁建設費問題で政府機関の一時閉鎖にまで発展し下院の民主党ホワイトハウスが対立、深刻な状況になっている。
私見ではあるが、北朝鮮問題、イラク・シリア問題、WTO、TPP、パリ協定離脱、国境壁の問題等々一連の動きは全て「トランプ疑惑」に対する目くらましに見えて仕方がない。
アメリカの良識派にはどう見えるのか、直ぐでも行って聞きたい気持ちである。
主要閣僚が更迭、辞任したのもトランプに愛想をつかしての事だろう、何か大きな事件が白日の下に曝される気配さえ感じる。
共和党の両院議員達も猫になってしまい、アメリカの良識は何処に行ったのか、と疑う。
有ろう事かアメリカはメキシコとの中米国境に「嘆きの壁」を作ろうとしており建設すれば歴史に禍根を残すことになる。
国際問題等は本来私の範疇ではないが、今や世界はインターネット同様、一衣帯水、株価も貨幣価値も連動しており無視できない。
トランプ流の大袈裟なパフォーマンスは真実をカモフラージュさせる挙動、大きく見せたり、小さく見せたり、畏怖心を与えたり、分かり難くするのは、大体においてペテン師かやくざ者の常套手段、若しかすればトランプは既に裸の王様も知れない。