心のふるさと「高野山」。

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高野山を訪ねたのは何年振りだろうか、多分14、5年以上にはなるだろう。
断捨離はモノだけに限らず私の中では思い出の中の人物や場所、し残した事への再現等も範疇であり、高野山も最後の参詣。
時間の都合で僅か20分間しか滞在できなかったが気持ちは満足、金剛峯寺の門前に写真の表示板がドーンと掲げられており、私に対する問責と重たく受け止めた。
「生かせいのち」簡単明瞭な問いかけではあるが、強烈な叱責、生きている人間に対する請求書にも見えた。
喜寿を迎えて尚、煩悩に明け暮れ、「これだ」の確信を持てず、思いつくままに生きてきた自分は今まで何処に居たのか、自責させる文言である。
高野山を訪ねる全ての人に対する問責、或いは修行の身にある僧侶達に対する訓戒の文言かも知れない、この「6文字」の秘める重さ、奥深さは果てしなく大きい、将に真言密教の「魔訶」。奥義が託されているかのように感じる。
残され時間が短く、なさねばならぬ事の多様さから考えれば、この時期のこの文言に出会えたのはご先祖の導きか。
これからの生きる指針として大事にしていこう。