「虚空蔵菩薩」今は昔。


私達が主宰する「里山くらぶ」の数名で東彼杵郡川棚町の虚空蔵山に登った。
標高608m、特筆するほどの山ではないが「九州100名山」の指定され東洋のマッターホルンと称され、頂上からの景観が下から見ても上から見ても見事であった。
私が興味は「虚空蔵山」の由縁である、虚空蔵山は長崎県だけでも7,8座有り信仰の対象になっている、山頂には「虚空蔵菩薩」を祀る祠が有り、知恵と悟りを求めて修行僧が行に励んだ歴史があるようだ。
山は天上に近く特別神聖な場所として崇拝の対象になり、寺院は全て山中に建立された、近世になって町中に移動し世俗的になってしまった。
虚空蔵菩薩は知恵と悟りを無限に包蔵した仏様の弟子、この弟子にあやかるために見習い僧侶が虚空蔵山に登ったのであろう、全国各地にあるのはそんな事情のようだ。
それにしても「虚無。虚空」何やら神秘的で怪しい響きがある、虚無的な世界で生きればどんな境地になるだろうか、よほど強い人間でないとその境地では生きれない。
無人間の代表格は今は昔、素浪人「虚無僧」だろうが。深編笠で顔を隠し尺八を吹きながら布施を貰い諸国を歩き、孤独な人生で化石の人になった。
虚空蔵山は今、修行の山からレクレーション登山の対象として親しまれている。
山頂に祀られた「虚空蔵菩薩」石像は色あせ所どころ欠落し憐れを感じるが、山の霊気は些かも風化していない。