住めば都か、住まば都か。

12月の初旬、里山クラブの仲間と時津散策コースNO4元村地区NO3野田コースを抱き合わせて歩く、写真はNO4コースの中間地点長与町高田郷の小高い山の稜線から時津町がくっきり見えた、山間の無効に見える町が時津町
参加者全員で記念撮影をして休憩場所にする全行程10km弱全員完歩、シニア女性はは底力が有る。
時津町に居を構えてかれこれ40年近くなるだろうか、友人の経営する住宅会社に依頼し建設したが当時は若く野心的であったのか、終の棲家を作ったような実感は無く子供たち子供部屋を作ってやったような気分で有った。
時津町に骨を埋める気はサラサラなく、まして議員になるとは夢にも思わなかった、
結果として私と3男がこの町に地縁を得てオトナシク暮らしているが多分余程のことが無い限り転居する事はないだろう、「住めば都」というが何時からか慣らされて来たようだ、人間というものは難しい事を云う割にいい加減、地域、社会に慣らされ無意識のうちに納得している。
「住めば都」というけれど、本来は「住まば都」が原語ではなかろうか、何処の誰かは分らないが「都落ち」した御仁が諦観した境地の中で転語が生まれたのでなかろうか。
長与町から見る時津の景観はそのままであるが果たして社会風景は如何であろうか、文教都市長与町は成熟した大人の風貌を感じる、住めば都の我が町時津は住民の皆さんにどのように映っているのか気になる処、議会で私なりに意見提言を前面に執行者に見解を求めるが余り確かな答弁が返って来ない、この町のコンセプト、アイデンティティが見えてこない、議会の力量不足で行政対極推進軸として働きが機能してないのかも知れない。
仕事で東彼杵町に赴く、町長室で渡辺町長と歓談、「蒸し煎茶日本一GET」燃えていた、駐日ラオス大使の歓迎会で知己を得、再会した「ラオスナガサキ」来春空路実現したら市場開拓で古木茶調査を打診、夢を共有し町益に帰すことが出来れば1石3鳥、世の中互いに周辺から面白くしていかないと限られた時間が勿体ない。