「千日回峰行」に共鳴する。


連休の中日、特別に休祭日だけがオフではないけど長い間の習性か、暦の休日は気分的に開放される、写真はすっかり冬の佇まいに入った我が家の欅、木の葉が散って寒々しい。


午後の昼下がりNHKアーカイブを見る、京都比叡山千日回峰行を2回も体現した酒井雄哉住職のドキュメンタリー、一日一生、一期一会、毎日の生活そのものが行、等々共感する。
叡山延暦寺開祖以来、30数名、まして2回は3名らしく修行完了者は大阿闍梨と称されるらしい、考えてみれば初めて選挙に立候補した前年の秋に延暦寺で梵鐘を打たせて頂いた思い出がある、途中、行を中止したら自ら命を絶つ戒律らしく、行そのものが命がけの挑戦。
酒井住職のインタビューには些かの気張りもなく、自然体で自分が体現できたのは仏様のお陰、天地の計らいと謙虚な話をなされていた。
私達とは住む世界も標榜する世界も違い過ぎるけど、過酷さにおいては俗世も千日行並みの厳しさは有る、實社会は義務的に仕組まれ使命を負荷されているが時間的な制約は「千日行」ほど苛酷で凝縮されていない。
毎日、平凡で同じ事をしなければならないこと程、苦しいことは無い。
庭の欅もこの家を建てる時、五島列島の実家から移植のために持ってきた、早40年になろうかとしている、「里山さるく」の自然探勝の折々に樹木、植物の逞しさ科やかさを悟る、動物とは比べ物にならない順応性をも有している。
千日行の大偉業を達成しておきながらインタビューの問に「千日行から得たものは何もない、が今がある・・・」正に名言、大阿闍梨の話は私の内なる土壌に追肥を施して貰ったように有り難く思えた。