佐賀、福岡行き


時間を作って佐賀経由福岡に行ってきた、師走の慌ただしさを福岡では特に感じた。
天神では二十数年前の難工事を思い出し感慨深い、私の処には難しい仕事しか廻ってこないから
完了するまでドウナルカわからない仕事ばかりであった。
佐賀の多久市にはほろ苦い思い出もあった、多久のインターを通過する時はいつも思い出す、出逢っても思い出さない人と会わなくても心に残る人がいる、多久の知人はその一人である。年賀状作りにやっと入る時間が取れた、本年が「夢」で来年は「恕」にした。
多久の孔子廟から学習した訳ではないが「恕=赦す」換言すれば「許容する」と同義語になるのではないかと思う、人生の残高が些少になり始めて到達できる境地かも知れない。
弟子が「人生で最も大切な事を一語で云えば何でしょうか」孔子は「それは恕かな」と答えたと論語にある、考えてみれば人間社会だけでなく天地万物の摂理は「恕」に」帰結している。
恕の意味を深く考えていけば「赦すと許す」を一語の中に包含しているように思えてくる。
(年賀向け=墨書/吞舟)   吞舟=くぼてつ号