漂流する人生・・・時津。

昨日、26聖人への手紙を掲載したが、410年前の丁度今時分大村湾を渡って時津に到着したとある。
日本のキリスト教史・長崎切支丹史の中でも特筆される日であるが、風化した部分もあり半分以上焼けてしまったセピア色の古写真を見る思いである。
私が初めて時津町を訪れたのは22歳の時である、田んぼを開拓して滑石町造成工事も急ピッチで進んでいたが、時津は道路事情も悪く砂利道の国道207号をスナ埃りをあげて走ったが浜の町からは遠い気がした。久留里海水浴場の道路端に松ノ木があり木陰でタバコを吸い休憩した記憶がある、日並の北部コミセン辺りであろうか畑の中に「松尾薬局という得意先」がありソコの婆さんに薬を届けてから40数年になるこれもセピア色の記憶、ココ時津町は将に日本の高度成長と基軸を同じくして中小企業、工場の長崎からの移転先として発展して来た町である。
時津との関わり合いはソレカラ飛んで了い、独立創業するまで無関係の関係、その後時津に始めてスナックがOPENする時、工事の加勢をしたり、35才の時に長崎から工場を移転し時津に本社を置く、37才の時、自宅建設をを友人の谷川(現・代議士)に依頼し居を構えるがココに骨を埋める事など全く想定外で、家族の為に子供部屋を作ってやる程度の軽い気持ちであったが、モタモタしている内に歳だけ喰ってシマッタ・子供部屋が「終いの住いと化し」、アロウ事か町会議員に成って仕舞った。
トワイエ現住所から見れば大村湾は我が家の付加価値であり、長崎市長与町も全て我が家の付加価値、恵まれた立地条件である。只今、水不足で町民は「水難」と悲鳴を挙げているが「非常手当て」は確保されている、これ以上悪化することは無い・・然しながら行政(政治)判断が住民の生活と如何に直結しているか、「好むと好まざるに拘わらず」答えは全て住民に降りてくる事を勉強した・・・地域社会の生活環境を整え、改善するのが政治であるが、逆行したら「何と」説明すれば良いのか、住民、怒りの矛先は議会と首長・役場職員にマデ来ている。